「今日はね、空襲警報があるんですよ」
突然教授がそう言った。
(空襲だって?)
連日の不眠症に苛まれていた僕であったが、不眠が祟って、ついに言語をうまく聞き取れなくなってしまったのかと思った。
日常会話で空襲なんて言葉が突然飛び出すものだろうか。
しかし、たしかにそう聞こえたのだ。空襲と。
「え?空襲ですか?攻撃されるんですか?」
予期せぬ情報に、ボケた頭を回転させ、会話をつなげる。
「ミサイル攻撃に備えた訓練をするんです。今日の13時半から14時の間ですよ。知らなかったんですか?」
教授はおかしそうに笑いながらそう答えた。
知らなかった。
まさか、本当に空襲と言っていたとは。
時刻は13時ちょうど。
お昼を食べようと入った飯屋はやけに混んでいた。いつもの2倍以上の客がいる。
普段ならば骨董品のような日立製の冷房がガンガンに効いているはずの店内がやけにぬるい。
「これは防空訓練の影響でしょうね」
教授は言った。
話によると、台湾では他国からの攻撃に備えて、国を挙げての防空訓練を行うらしい。防空訓練は30分間。その間国民は屋内でじっとしていなくてはならないらしい。
公道の自家用車、路線バス、鉄道は、全てがもれなく停止するとのこと。
なるほど、その時間をさけるために、前倒しでお客さんが殺到しているわけだ。
「もし外に出て警察に見つかれば最低3万元の罰金ですよ」
3万元。日本円でいえば10万円近くする。最低3万元なら罰金としては重たい部類だ。
3万元もあれば、1ヶ月余裕で贅沢して暮らせるぞ。毎日火鍋パーティーできるじゃないか。
などとくだらない事を考えながらも、これは公共交通機関さえ止めてしまうの訓練なのだ。それだけ本気の訓練だということを理解するのは”外国人”の僕にも難しくなかった。
考えてみれば台湾はあの大国、中国に狙われている身。
真実はどうであれ、中国の立場からしてみれば、中華民国という団体が立てこもりをしている中国領土。それが台湾という場所なのだ。
緊張状態はある程度緩和されているとはいえ、いつ戦闘が開始しても不思議ではない。
まるで戦時中だ。
と、ここで運ばれてきた排骨飯に目を落とす。
戦時中にしてはずいぶん豪華な食事だ、と若干不謹慎なことを考えながら鷄肉と米を口に運ぶ。
台湾の香辛料がガツっと効いた料理も、慣れればウマいものだ。
しかし、付け合わせの大根にはパクチーが入っていた。パクチーだけはどうも慣れない。ドクダミを食べたらきっとこんな味だ。と僕は思う。
「どうしましたか」 と教授が僕に話しかける。
いや、パクチーがマズくて。
「いや、なんか現実感ないなって思ったんです。空襲だなんて。」
会話のつなぎがどう考えても不自然だが、案外ゴリ押せるものである。インドネシア人に日本語でゴリ押しした経験のある僕に死角はない。
「そうですか!日本ではこういうのはないんですか?」
「ありませんよ。地震とか火災の避難訓練を学校や会社単位でやるくらいです。国を挙げて公共交通機関まで止めてしまうなんてビックリです」
僕は不安どころか、この大がかりな訓練にワクワク感さえ覚えていた。聞くところによると空襲サイレンも鳴るようだし。
真剣な国防行為を見世物感覚で楽しんでいるなんて良くないなあ、と感じながらもやはり、そのワクワク感を抑えきれずにいた。
時刻は13時29分。訓練開始の1分前である。
ドカーン!
地面が揺れる程の轟音が響く。
「うぉ」
思わず声が出る。
おいおい、マジかよ。本当に爆弾を落としたのか?なんて考えがよぎる。
「ハハ、雷ですね」
「あ、雷」
それだけの短い会話が起こり、また店内には静けさが戻った。客は皆、黙って警報が鳴るのを待っている。
と、ここで店内の人間のスマートフォンが一斉に鳴る。過去に何度か聞いたことのあるアラート音だ。
日本のそれとは違って、余り不安を煽られない電子音。ミサイルが降ってくるのだしもう少し「ヤバい」感を出してもいいんじゃないかと思う。
して、屋外のサイレンは……。
サイレンは。
サイレンは……鳴らない。
「おかしいですね」 と教授。
教授と飯屋の主人が話し始める。
そして、サイレンが鳴らなくなったのは 「時代の影響でしょうな」 という結論に落ち着いていた。
惜しい。僕は聞きたかったのに。ホンモノのサイレン。
時代の影響だって?
時代とは許しがたいものである。
大雨が降り始める。
空襲警報に続いて、大雨。そして雷。
雷鳴がまるで本当の爆撃音のよう――という言葉を僕は飲み込んだ。
あまりに不謹慎である、母方の祖父譲りか、はたまた父譲りか、僕はいささかそういうヨクナイ発想が浮かびやすい傾向にある。
「まるで本当の爆撃みたいですね」
ドキッとした。僕ではない。教授がそう言ったのだった。
「ハハ」
(爆撃……か)
……訓練とは不思議なものである。警報発動の予告を日付だけならともかく、時間まで指定してしまって意味があるのだろうか。
かの国が「明日のお昼時に台北市にミサイル落とすからヨロシク」なんて事前連絡をよこしてくれるはずがない。いつも5時限目に理科室から火の手が上がるとは限らないのだ。
飯屋の主人が現れて言う。
「大通りの車ぜーんぶ停まってる、いつ見てもすごいね」
僕も見たい。動画も撮りたい。でも、あいにく客席から大通りは見えない。
サイレンが聞けなかったのだ、大通りくらい見せてくれたっていいじゃないか。
居留証でも見せて「外国人だから、外に出てはいけないなんて知らなかった」と弁明すれば、警察は許してくれる。
……なんて事も考えてみたけれど、国民がマジメに参加している訓練だ。そういうふざけたマネはできない。
それ以前に、教授が目の前に座っているのだ。どうして席を立つことができようか。
――そして、なにごともなく警報は解除された。
しかし、この大雨は相変わらずやむ気配を見せない。
さて、僕は傘を持ってきていない。どうしたものか。
僕は財布を無造作にズボンのポケットにつっこんで来たことを後悔した。
教授は一緒に昼ご飯を食べるときに、必ずおごってくれる。
しかし、もしも教授が「今日は自分の分は払ってください」だの「すみません、財布を忘れてしまったので、払っていただけますか」だの言った場合に、財布を持ってなかったら非常にマズい。だから、財布は必ず携帯している。
そんな打算を抜きにしたって、僕は食事に財布なしで行くほど面の皮が厚くできていない。この奥ゆかしさ、僕が女性ならきっとモテモテだったにちがいないだろう。
さて、後悔した理由は、財布が革製だというところにある。革は濡れに弱い。
自身がずぶ濡れで帰るのはいい。ブログの絵面的にも面白くなるし、雨に濡れることには全くといっていいほど抵抗がない。
心配なのは、この大事な財布が濡れることなのだ。
と思っていたのだが、思い返してみれば、僕はこの”大事な財布”とやらを市ヶ谷の釣り堀に落としたり、間違えて洗濯機で回したりしている過去があったのだった。
その事実に気がついた瞬間、突如として財布のことなど、どうでも良い気がしてきた。
よし、いいだろう。傘ナシでずぶ濡れで帰宅して財布もろともブログのネタにしてやろじゃないの。
と、決心したところで、飯屋の主人が傘を渡してきた。
待ってくれ、このタイミングで傘を渡されても困る。
「あ、僕はいいです」
「遠慮しないで!ほらどうぞ!!」と主人。これは断れそうにない。
くそう、ブログのネタはつぶれるし、何より返却するのが面倒くさいじゃないか。
僕は過去に何度か「傘を貸してくれる人」に出会っている。先に言っておくと、本当にいい人達だったと思う。
でも、僕には濡れることよりも、傘をその後返さなきゃいけない事の方が100倍嫌なのだ。返すのが心底面倒だ。
傘を貸してくれないほうが僕は嬉しい。
一方、傘を貸す人というのは、貸す行為を絶対の善と信じている。普通はそうだろう。僕も頭では理解できる。
しかし実際のところ、僕にとって傘貸しとは、半ば押し売り行為であり、宗教勧誘なのである。彼らは”傘教”信者なのだ。
そんなこんなで結局、傘を受け取ることになったのだった。
が、どうしても面倒に感じた僕は、自宅に戻る途中で引き返し、主人に傘を返すことにした。
「店長、傘は返します。家も近いし、雨も弱まってき……」
「大丈夫大丈夫大丈夫!もってけもってけ!まだうちにはいっぱいあるから!!!」
心からの親切というのは本当に断りにくいものだ。
僕はありがたく傘教に入信することにした。
帰り道、あれだけ固辞した貸し傘だったが、傘を打つ雨音は、とても心地良く感じた。
まあ、いいか。
あの店のココナツカレーは絶品だ。傘を返しに行く日にココナツカレーを食べよう。
ココナツカレーを食べる未来を、期待できる今日があってよかった。警報が鳴っても降ってきたのはミサイルじゃなくて雨だったのだ。
ボロい傘の中でそんなことを考えてみる防空訓練明けの午後だった。