全てが面倒くさいと感じた瞬間は新たな一歩を踏み出すチャンスかも知れない

生活

本題に入る前に少し話します。

僕は盲目的なシステムというワードが好きです。

バーバパパというアーティストが発案した言葉です。

妄信的なシステムとは

  • たくさん勉強していい会社に入ろう
  • 結婚して幸せな家庭を築こう
  • 安定した生活を送ろう
  • 落ち着いたらやりたいことをやろう

などを指します。

もちろんこれだけには留まりません。

 

妄信的なシステムは、言い換えれば生き方の模範。もっと狭めて言えば、日本での生き方の模範と言えます。

(ここでいう模範はもちろん正しいとは違う意味は持ちません)

 

世の中では個性を大切にとか、多様性を受け入れるとかいうセリフが平気で吐かれています。

しかし、実際のところ、多くの人は無意識に模範的生き方を意識しているので、模範的でない人を自分より下に見る傾向があります。

 

例えばわかりやすい模範的でない人はLGBTの人や大学を卒業していない人。

普通ではないとして人々は意識的にも無意識的にも、彼らに根拠のない迫害を加えています。

社会構造

なぜこのようなことになるのかといえば、盲目的なシステムが人を精神面で支配しているからです。

教育過程の中であったり、報道であったり、あるいは社会生活を通して盲目的システムは人々に浸透してきます。

もちろんその過程に気がつく人はほとんどいません。

 

気がつかずに刷り込まれている事象は身近にもたくさんあります。

例えば、教育としての国語。国語は才能を殺します。

読解は想像の才能を、作文は表現の才能を。

言語を扱う上で、伝わらない、理解できないというのは問題ですから教育の必要があります。

しかし、国語教育の指導は、その範疇を越えて、想像力や表現力を損なわせます。

これは陰謀論などではありません。結果として偶然そういう様態になってしまったに過ぎないと考えています。

 

現代社会も同じで、本来は生き方はもっと幅広くて良いはずなのに、なぜか模範的生き方という概念が形成され、それに沿って生きるのが理想だと、思い込むようになっています。

 

生き方は自由だよね!なんて聞けばほとんどの人が漠然と肯定しますけれど

いい大学→大企業に就職→結婚→老後を楽しむ

という生き方が理想的だと思っていませんか。

理想だとは思わないにしても、このルートを沿うような生き方が一般的だという意識がありませんか。

そして、その生き方に異を唱えるだけで、「あっ、この人ヤバいひとかも」と思われてしまいます。

実際は、かなり自由じゃないです。

無意識に歯車になりたい

社会(盲目的システム)に一方的に囚われているだけではなく、自らもそれに必死にしがみついています。

敷かれたレールなんて言葉もよく使われていますが、実に言い得て妙です。

盲目的なシステムというレールに沿うように生きることができれば、満足のいく人生が送れるでしょう。

ゆえに、そのレールから外れたらもうオシマイだと思っている人も多くいます。思い込まされているといってもいいかもしれません。

他の可能性を見出す目を失ってしまうのです。

まさに盲目的なシステムです。

本題:すべてが面倒になるのは転機かもしれない

全てが面倒になるのは、今おかれている状況が自分にあっていないという可能性が考えられます。

 

友人関係、やらなきゃいけないこと等々。

……それは自分にとって本当に現状維持する必要があるのでしょうか?

なくなっても困らない可能性を考えたことはありますか?

 

こうあるべきだという一般論、つまり盲目的システムに自分の本当の気持ちが飲み込まれているかもしれません。

盲目的システムから離れられないのは、そこから離れたときに、自分の人生がどうなってしまうか分からないからです。

そして、分からないことが恐れにつながっているからです。

残念ながら、この「恐れ」と折り合いがつかず、死んでしまう人もたくさんいます。

 

もし、このシステムの中で生きることを面倒だと感じたならば、思い切ってそこから離れて新しい一歩を踏み出すチャンスです。

面倒だと感じてしまうのは、決して能力や人間性の問題ではなく、ただ単に自分に合わないというだけの理由かもしれません。

逃げるのとは違う

もちろん、レールから脱した後に、何もしなくていいわけではありません。

自分で新しい生き方を見いだす必要があります。

でも、生き方は無限にあります。どれが間違っているなんてことはありません。

 

ということは、敷かれたレールの上を走る生き方も間違ってるとも言えません。

 

大切なのは自分がどう生きるかを考えることです。

 

 

妄信的なシステムは、安心を求める人々の「こうあるべきだ」という意識の集合によって維持されています。

 

しかし、新型コロナの一件で顕著に現れ始めていますが、これらのシステムはいつまでも保ち続けられるものではありません。

雇用されつづけるのは当たり前でしたか?

会社にとっての莫大な不変費は?

社員です。

企業が有能な社員のみを手元に残して、有象無象のこなせる仕事を外注にしてしまう可能性は?

 

絶対的な安定など存在しないのです。

 

今のうちに他の道を用意しておくのは必要かもしれません。

おわりに

といろいろ御託を並べましたが、僕自身が模範的生き方から逸れようとしている理由は大したことありません。

安定を求める生き方は勿体ない、楽しくなさそうだと思ったから。それだけです。

 

1つ言えることは、安定していようとしていまいと、自分が楽しいと思える生き方をするべきだということです。

面倒、辛いとばかり思ってまで通しつづけなきゃならないものごとなんてありません。

 

オマエのやり方はおかしい!と批判するのは、それこそおかしい話ですから気にせずに、生きたいように、です。